第1幕序曲 第1場テリィからの手紙

29 2 1
                                    


『──ぼくは何も変わっていない』*1

キャンディは、長い間その言葉から目が離せなかった。

手紙を固く握りしめていた。

胸が苦しくなり、呼吸もままならなかった。

なんと短い文章。短い言葉。

──でも、全てを語っていた。

そして多くの未来が、大勢の人の人生が、これらの言葉によって永遠に変わろうとしていた。

キャンディは、言葉の深さに感極まっていた。何も考えられずにいた。

『何も変わっていない』*1 と云っている。

そうね......。

キャンディにはそれが真実だと理解できる。

12年前、彼がキャンディに宛てた手紙は、これとさして変わらなかった。

あの時彼は云った。

『ぼくはアメリカでやりたいことがある』

それも短い文章だった。キャンディの世界を粉々にして、二人の人生航路を永久に変えて。

12年前と同様に、この短い言葉と共に、テリィは天と地をひっくり返そうとしていた。

(......テリィ、どうして半年前にこの手紙をくれなかったの?)

「半年前にくれれば......」

**********

キャンディはスザナの死亡記事を思い出していた。

ニュースを知って、涙が止まらなかった。

悲しいからではなかった。

死亡記事を読みながら、あの忌まわしいニューヨークの夜の出来事の後に届いた、スザナの手紙を思い出していた。

手紙の中でスザナは、テリィと離れたくないという、自分本位でわがままな自分のことを許して欲しい、とキャンディに訴えていた。

手紙に打ちのめされ、一刻も早く忘れようとした。

前を向いて後ろは振り向かない。どうあがいても過去は変えられないのだから。

ニューヨークから戻った後は、スザナのことも事故のことも思い出さなかった。

自分の気持ちに向き合いたくなかったのだ。

自分の決意に、平和を見出したかった。

死亡記事は、キャンディに今一度スザナの手紙を思い出させた。

何年もの間抑えていた感情が、涙となって一気に溢れ出た。

全てを過去に置いてきたと思っていた。

時が経つに連れて、感情は薄れていったと思っていた。

キャンディは、心の奥深くにある凍りついた扉の向こうに埋めていた記憶と感情を見つけだしてしまった。

死亡記事はまるで鍵のように、すべてを解き放ってしまった。

キャンディは、失った物を求めて泣いた。

しかし、キャンディは、テリィが再び手紙をくれるとは、思ってもいなかった。

10年は長い。

二人の間にあった物が何にせよ、もう遠い昔に失っていたと思っていた。

テリィの為に、いつかテリィがスザナを愛する事を願った。

──テリィが幸せなら、──テリィに幸せでいて欲しいと願っていた。

「──この手紙を貴女に渡さないのは、いけないことのように思えて......」
レイン先生は、ポニーの家に届いたテリィの手紙を、心配そうな眼差しで手渡すと、静かに診療所を立ち去った。

キャンディは先生に感謝した。

キャンディは、時間が経つのも忘れて、テリィの手紙を見つめていた。

アーロンが入ってくるのに気付いて、ようやく手紙から目を離した。

「待ちわびていた軟膏がやっと届いたよ」
アーロンが、嬉しそうに言った。

「ポニーの家のピーターに持って行ったところだ。可哀相に──。これで痛みも和らぐはずだ。熱も下がるだろうね」

「良かったわ!」
キャンディはそう言うと、無理に笑顔を作った。

ピーターは、8歳のポニーの家の孤児だ。

問題児である彼は、トムの農場で林檎を取ろうと石を投げつけたが、代わりに蜂の巣に命中させてしまった。

蜂の群衆は、瞬く間にピーターを襲い、3日間続いた腫れによる苦痛に喘いでいた。

キャンディは、ピーターが回復に向かっていると知り安堵した。

「キャンディ、何かあったのかい?顔色が良くないよ」

「......えっ?な、何でもないわ。......少し疲れただけよ。散歩でもして新鮮な空気を吸ってくるわね」
キャンディは床に目を落とし、言った。

「そうだね」
アーロンはそう言って微笑むとテーブルに薬の箱を乗せた。

「まだ沢山有るんだよ。後で整理して片付けよう。あれ?それ、アルバートさんからの手紙かい?」
アーロンは、キャンディが便箋と封筒を持っているのに気づいて、訊ねた。

「......手紙?」

「君が持ってるそれさ」

「えーっと、......そうよ、アルバートさんから......」
キャンディは便箋を掌の中に丸めて、文字が見えないようにした。

「アルバートさんは、今どこいるんだい?僕達の結婚式に戻って来なかったら、許さないところだよ」
アーロンは、そう言いながら薬の箱を開け始めた。

アーロンを見つめるキャンディの胸は、締め付けられた。

「......散歩に行ってくるわね」
キャンディは、何故アーロンに嘘を付いてしまったのか、分からなかった。

この時には、まだ自分の気持ちが分からずにいたが、説明しようのない罪の意識に襲われ、アーロンの顔を見ることが出来なかった。

何も悪いことなどしていないのにも関わらず──。

キャンディはドアを開け診療所の外に出ると、自然とポニーの丘に向かって歩き始めた。

お父さんの木の横に立ちながら、見慣れた美しい景色を見つめていた。

初夏が始まろうとしていた。

新鮮な空気と爽やかな風が、キャンディを和ませる。

幼い頃から何度もここに立って、この景色を見ながら自分を待っている世界を夢見ていた。

キャンディは今一度、景色を見渡してみる。

まだ自分を待っている世界が、あるのだろうか?

それとも、故郷と呼べるここが、今立っているここが、自分の世界なのだろうか?

テリュース。
──テリュースも、かつてここに立っていた。

(──今でも思いを巡らす──あの日、テリュースはここに立って、何を見ていたのかしらと......)





**********************************
参考資料
*1
名木田恵子著
小説キャンディキャンディファイナルストーリー 下巻
祥伝社 2010年11月10日 発行
283頁

The One I Love Belongs to Somebody Else    〜それでも君を愛してる〜  By Alexa KangWhere stories live. Discover now